天地の開ける音を聞け

天地の開ける音を聞け

ある寺で講話の後、こんなことを聞かれた。
「私は、ある宗教の話を聞くのですが、自分の妻に感謝せよ、手を合わせて、ありがとうございますと言えと言われ、なるほど、いいことだと思うのですが、いざやろうと思うと、照れ臭くてできないのです。どうしたらできるでしょうか」と。

お四国に出ると、お遍路さん同士が出会うと、手を合わせて拝み合うのに、何のテライもなく、自然にできる。その点、信心の稽古場として良いところである。何もかもが、お大師様だと手を合わす気持ちを養い、それを家に帰ってもやり続けるなら、どんなにいいことだろう。

ところが、長年連れ添った主人や妻に、コトあらためて手を交わして「ありがとうございます」などとは言えないものである。打ち解けあっているので、改めて、そんなことをしないところに、気安さと一体感があると言えるが、そのナレあっているところに危険がある。

なぜ、妻や夫に、形に出して「おはよう」とか「ありがとう」が言えないのか。それは、こだわりがあるからだ。特に喧嘩をした後、自分が悪かったと反省させられた時「すみません」と謝れば良いものを、それが言えない。言えば、自分がすぼんでしまうような気になる。だが、そんな気持ちを捨ててしまうのだ。

それには、1番初めのことを思い返すとどうだろう。夫婦ならば、初めて出会ったときのことをーーー
親子ならば、長らく別れていて久しぶりに会ったときーーー
あるいは小さい子供だったときのことをーーー
喧嘩をしたという行きがかりを捨ててしまって、お互いに「お初にお目にかかります」といった気持ちで毎朝、挨拶をするのだ。

さらにさかのぼって、神がこの世を、今開いたばかりの時の気持ちーーー
禅では「天地の開ける音を聞け」と叫ぶ。
西洋では「全ての被造物が未だ住まない境地に1時たりとも、あなた自身を没したら、その時、あなたは神の語るのを聞き得るでしょう」と説く。

それは純粋になることだ。因縁によってできている自分を捨て、神と直結することだ。
「神の求めたもう祭りものは、汝のくだけたる魂である」
「此の世を捨てるとき、此の世が造られたその所にくる」
と。一瞬でも、その気持ちにひたりきるとき、どんなことでもできないことはない。
一切をすてるのだ。とびこむのだ。もうガムシャラだ。
「ありがとうございます」
父に、母に、夫に、妻に、子に、言え!言え!

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