石手寺
熊野山 虚空蔵院 石手寺は真言宗豊山派の寺院で四国八十八箇所霊場の第五十一番札所でもあります。
道後温泉の近くにあり文化財もたくさんあるこのお寺はミシュランガイドにも載るほどの観光寺として多くの参拝者でにぎわっています。
観光地としての石手寺
石手寺は「日本三古泉」の一つ、その中でも日本最古の温泉「道後温泉」から車で10分程のところにあることから観光スポットとしても人気を集めるお寺です。
そんなこともあり観光地としてミシュランガイドの1つ星に選定されています。
参道が回廊形式となっていて仲見世のみやげ店も並んでいます。なかでもみやげ屋で売られている「やきもち」は石手寺の名物ともいわれています。
縁起
神亀5年(728)、伊予の豪族だった越智玉純がこの地に二十五菩薩が降臨する夢を見ました。
その夢がきっかけとなり熊野12社権現を祀って鎮護国家の道場を建立したのでした。
それを知った聖武天皇はここを勅願所としました。
そこへ行基菩薩がやってきて翌年の天平元年に薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と名前を付けたのだそうです。
それから時が経ち弘仁4年(813年)に弘法大師空海が訪れます。このときに真言宗に改めたとされています。
衛門三郎の左手に握られた石
「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされています。
そもそも現在多くの人が四国遍路をしているルーツとなった人物が衛門三郎といわれています。
彼は伊予の国浮穴群荏原の郷の領主でした。
そんな彼の家に一人の僧侶が一晩泊めてもらえないかと訪ねてきたとき衛門三郎は僧侶を突き飛ばし追い返しました。そのとき僧侶が持っていた鉄鉢が8つに割れ、僧侶は去っていきました。
それからというもの衛門三郎の子供が8人次々と若くして死んでしまいました。
衛門三郎は、あの時突き飛ばした僧侶が弘法大師空海だったと理解し、弘法大師空海を追う旅に出ます。
それから四国を21周したとあるうるう年の日、死にかける衛門三郎はやっと弘法大師空海に会うことができます。
そして弘法大師空海に「来世は国司の家に生まれたい」という願い事をしました。
空海上人は「衛門三郎の再来」と書いた石を左手に握らせたといわれています。
その翌年、河野息利の家に生まれた男の子の左手が開かず、この安養寺住職が祈祷すると「衛門三郎再来」と書かれた小石を握っていたといわれています。
この伝説に登場する住職の自坊が安養寺だったことから、衛門三郎の手に握られていた石にちなんで石手寺と称するようになったのだとか…
四国随一の文化財を誇る石手寺
平安時代から室町時代に河野氏の庇護を受けて栄えたこの石手寺は七堂伽藍六十六坊を数える大寺院だったといわれています。
しかしながら永禄9年(1566年)に長宗我部元親の焼き討ちにあい建築物の大半を失ってしまいます。
そんななか本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れ、現在残っている境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されています。
国宝 | 二王門 |
重要文化財 | 本堂鐘楼 三重塔 護摩堂 訶梨帝母天堂 五輪塔 銅鐘(愛媛県最古の銅鐘) |
県指定有形文化財 | 木造金剛力士立像木造不動明王 二童子立像 木造天人面 木造獅子頭 木造菩薩24面 大壇 礼盤 銅三鈷鈴 絹本および毛髪地著色仏涅槃図 |
松山市指定有形文化財 | 掛仏鋳鉄燈籠基台 石手寺古文書 石剣 石手寺制札 石手寺二王門棟札 石手寺訶梨帝母天堂棟札 |
松山市指定記念物 | 石手寺古墳第1号・第2号 |
松山市指定天然記念物 | みかえりの桜 |
なかでも注目されているのは…
- 訶梨帝母天堂
このお堂の周りに落ちている石を妊婦が持って帰ると安産祈願になるとされています。
そして無事に出産すると石を2つにして返すというお礼参りの風習があります。
- 茶堂大師
この堂の大師像は絶対秘仏で住職も見たことがないといわれています。
お堂の前の香炉には線香を奉納した煙が絶えない名所です。
- 落書き堂
石手寺の大師堂には落書き堂という別名が付けられています。
これはかつて夏目漱石や正岡子規など多くの名士が落書きを残していたことから付けられました。ただし壁は第二次大戦中に塗りなおされているので今は落書きを見ることはできません。
- 洗い石
門前にある石は別名「渡らずの橋」と呼ばれていて裏側に経文が刻まれている名跡となっています。
- 阿弥陀堂
二王門を入って左側にある阿弥陀堂はぼけ防止の祈願者が多く参拝するスポットとして有名です。